“幸せって何だろう”を、3年間続けてきた感覚

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はじめに

アイビーは、さまざまな方々のおかげで、
今この瞬間も現場を進み続けることができています。

今も関わってくださっている方もいれば、
もしかしたら、直接の関わりはもうない方もいるかもしれません。
それでも、この場を借りて、
心から感謝を伝えたいと思います。

いつも、本当にありがとうございます。

今回のブログは、
3年間やってきた中で、
今、私が率直に感じていることを書いています。

少し長く、
少し鋭く感じられる部分もあるかもしれません。

もし途中で、
「今はちょっと難しいな」と感じたら、
無理に読み進めなくて大丈夫です。
ぜひ、いつも通りの日常に戻ってください。

私は、
考え方を押し付けたいわけでも、
何かを強制したいわけでもありません。

そして、
誰かから強制される関係性も、
望んでいません。

そうした距離感の中でこそ、
人は自分の感覚を取り戻せるし、
いい関係性が続いていくのだと思っています。

こんなアイビーですが、
これからも、
それぞれのペースを大切にしながら、
現場を続けていきたいと考えています。

今後とも、
どうぞよろしくお願いいたします。


”幸せ” と ”不幸せ” という、わかりづらい言葉について

”幸せ”と”不幸せ”。
この世界で、たぶん一番わかりづらい言葉だと思っています。

どちらもよく使われるし、
誰もが一度は口にしたことがある。
でも、いざ説明しようとすると、
途端に言葉が足りなくなる。

私はこの言葉について、
長い間、考え続けてきました。

特別な理由があったわけではありません。
ただ、いろんな人の人生に触れる中で、
この二つの言葉が、
あまりにも簡単に使われていることが、
ずっと気になっていたのだと思います。

「それは幸せだよね」
「それは不幸だと思う」

そう言われたときに、
どこか納得できなかったり、
逆に、説明できないけれど腑に落ちたりする。

その感覚の違いは、
言葉の定義の問題というより、
その人がどんな人生を歩いてきたか、
何を大切にしてきたか、
そういう積み重ねから生まれているように感じます。

ステーションを立ち上げてからの3年間、
本当にいろんな人を見てきました。

年齢も、立場も、
抱えているものも違う。
同じ「幸せ」という言葉を使っていても、
指しているものは、
驚くほどバラバラでした。

私自身もまた、
自分の人生を振り返りながら、
その違いを考え続けてきました。

今日は、
「幸せとは何か」という答えを出したいわけではありません。

ただ、
いろんな人を見てきて、
自分の人生とも照らし合わせたときに、
今、私が感じていることを、
一つの到達点として、
淡々と書き残しておこうと思います。

これは主張でも、
誰かへのメッセージでもなく、
ひとつの観測の記録です。


後付けの幸せに向かってしまう人たち

これまでに見てきた人たちの中で、
とても多かったのが、
「幸せになろうとしているはずなのに、
だんだん苦しくなっていく人」でした。

最初から無理をしていたわけではありません。
むしろ、多くの場合はとても真面目で、
周りの期待に応えようとする人たちでした。

仕事を頑張る。
家族を大事にする。
人に迷惑をかけないように気をつける。

どれも、
間違っているとは言えないことばかりです。

それでも、
あるところから、
「こうなれば幸せなはず」という形が、
少しずつ先に立ち始める。

安定していること。
評価されていること。
ちゃんとしていること。

その形に自分を近づけるほど、
安心は一時的に得られるけれど、
同時に、
自分の感覚が後ろに追いやられていく。

「本当はどう感じているのか」
「これは自分に合っているのか」

そういう問いを立てる余裕が、
少しずつ失われていくように見えました。

それは、
欲が深いからでも、
意識が低いからでもありません。

多くの場合、
不安や疲れが積み重なった末に、
「考えなくて済む形」を選ばざるを得なくなっている。

いわば、
安心するための選択だったのだと思います。

ただ、その安心が、
自分の内側から生まれたものではなく、
後から当てはめた形であるほど、
どこかで無理が出てくる。

笑っているはずなのに、
満たされているはずなのに、
「これでいいはずなのに」と、
何度も自分に言い聞かせている。

そんな姿を、
私は何度も目にしてきました。

ここで大切なのは、
それを「間違い」と呼ばないことだと思っています。

誰もが、
安心したくて、
生き延びたくて、
その時できる選択をしている。

ただ、その選択が、
自分の感覚から少しずつ離れていったとき、
幸せという言葉が、
あとから貼り付けられたもののように
感じられてしまうことがある。

それが、
私が見てきた
「後付けの幸せ」の姿でした。


本当の幸せは、いつも説明しづらかった

一方で、
長い時間をかけても、
大きく折れずに生きている人たちもいました。

目立って成功しているわけでもなく、
周囲から特別に評価されているわけでもない。
でも、不思議と、
極端に崩れていかない。

そういう人たちに共通していたのは、
「幸せ」をうまく言葉にできない、
という点でした。

「今、幸せですか?」と聞かれても、
少し考え込んだあとに、
「どうなんでしょうね」と笑ったり、
「特別なことはないです」と答えたりする。

でも、その表情には、
どこか無理がなかった。

派手さはないけれど、
日々の中に、
小さな納得が点在しているような感じ。

それは、
誰かに説明するための幸せではなく、
自分の中で静かに成立している状態、
と言ったほうが近いのかもしれません。

その人たちは、
自分の生活の範囲や、
使える力の大きさを、
よく分かっているように見えました。

頑張るところと、
力を抜くところ。
踏ん張る場面と、
任せる場面。

その線引きが、
とても自然だった。

「足りない」と感じる前に、
「今はこれで十分だな」と立ち止まれる。

そういう感覚が、
その人たちの中には、
きちんと残っているように見えました。

不満や不安が、
まったくないわけではありません。
ただ、それらを無理に消そうとせず、
自分の状態を確認するための
合図として扱っている。

だから、
必要以上に背伸びをしないし、
誰かの人生をそのまま
自分の目標にすることもない。

そうした姿を見ていると、
「本当の幸せ」というものは、
完成した形ではなくて、
説明のつかない感覚として、
日常の中に埋もれているものなのかもしれない、
と思うようになりました。

それは、
他人に見せるためのものではなく、
自分が自分でいられる感覚に、
いちばん近い場所にあるように感じます。


私自身も、その間で揺れてきた

ここまで書いてきたことは、
どこか遠くの話でも、
誰か特別な人たちの話でもありません。

私自身も、
そのあいだで、何度も揺れてきました。

周りを見れば、
わかりやすく評価される生き方があって、
努力がそのまま成果に結びついているように見える人もいる。

そういう姿に触れるたびに、
「自分はこのままでいいのだろうか」
と考えてしまう瞬間がありました。

もっと頑張ったほうがいいのかもしれない。
もっと大きなことを目指したほうがいいのかもしれない。
そうすれば、
今より分かりやすく“幸せ”と呼ばれる場所に
近づけるのではないか。

そんなふうに、
自分の感覚よりも、
外側にある基準に
気持ちが引っ張られることもありました。

同時に、
ふとした瞬間に、
「もう少し、力を抜きたい」
「これ以上、操縦席に座り続けるのはしんどい」
と感じることもありました。

それは、
逃げたいというよりも、
自分の状態を守りたいという感覚に近かったように思います。

誰かを支える立場にいると、
自分の迷いや疲れを、
後回しにしてしまうこともあります。

でも、
自分自身がどんな状態で生きているのかを
感じ取れなくなってしまったら、
人の人生に触れること自体が、
どこか歪んでしまう。

そう気づいてからは、
「正しそうな生き方」よりも、
「続けられる生き方」を
大事にしたいと思うようになりました。

それは、
何かを諦めることではなくて、
自分の感覚に戻ってくる、
という選択だったのだと思います。


なぜ、アイビーはこの場所に立っているのか

こうした揺れや迷いを重ねる中で、
私の中では、少しずつはっきりしてきた感覚があります。

それは、
人は「正しく生きられるか」よりも、
「折れずに生き続けられるか」のほうが、
ずっと大切だということでした。

孤独や孤立という言葉は、
特別な状況を指すもののように扱われがちですが、
実際には、
とても身近なところにあります。

誰にも頼れないと感じる瞬間。
弱音を吐く余白がなくなったとき。
「これくらい平気だ」と言い続けているうちに、
自分の感覚がわからなくなってしまった状態。

そうした時間が重なると、
人は少しずつ、
自分の人生から距離を取り始めます。

アイビーが大切にしている
「孤独・孤立を0にする」という言葉は、
誰かを常につなぎ止める、
という意味ではありません。

むしろ、
一人になっても戻ってこられる場所があること。
揺れたときに、
「ここに話していい」と思える相手がいること。

それだけで、
人は自分の操縦席を、
完全に手放さずにいられる。

また、
HSナーシングが掲げている
「関わったすべての人にハッピーとスマイルを」という言葉も、
いつも前向きでいよう、
という話ではないと思っています。

不安があってもいい。
迷ってもいい。
立ち止まってもいい。

それでも、
「自分で選び直せる感覚」が残っていれば、
人はまた歩き出せる。

その小さな回復の積み重ねが、
結果として、
その人なりの幸せにつながっていく。

そう信じているからこそ、
私たちは、
急がせすぎず、
期待を押し付けすぎず、
でも放り出さない、
という距離感を選び続けています。


後付けの幸せと、本当の幸せ

ここまで書いてきたことは、
何かの答えを提示したかったわけではありません。

むしろ、
ずっと問い続けてきた結果を、
一度ここに置いておきたかった、
という感覚に近いかもしれません。

人はいつの間にか、
「幸せとはこういうものだ」という形を
外側から受け取るようになります。

年齢や立場、
周囲の評価や空気、
社会の流れ。

そうしたものを集めて、
あとから貼り付けるように作った幸せは、
一見、立派に見えます。

でもその幸せは、
どこか重たくて、
常に維持し続けなければならない。

少し力を抜いただけで、
崩れてしまいそうになる。

それは本当に、
自分の人生だったのだろうか。
そんな問いが、
どうしても消えませんでした。

一方で、
つい考えてしまうこと。
理由はわからないけれど、
やっていると落ち着くこと。
誰に評価されなくても、
自分の中で納得が残る時間。

そうしたものは、
派手ではありませんが、
不思議と腐らない。

あとから貼り付けなくても、
最初からそこにあった感覚。

私はそれを、
「本当の幸せ」と呼んでもいいのではないか、
と思うようになりました。

高望みをしない、
というよりも、
自分の土台から飛び越えない。

無理に操縦席を降りる必要もないし、
無理に走り続ける必要もない。

疲れたら、
少し速度を落とす。
迷ったら、
誰かに相談する。

そうやって、
自分の人生に戻ってこられること。

それができるなら、
人は人を信じられるし、
適切な距離で関われるし、
また誰かを愛することもできる。

アイビーが3年間、
大切にしてきたのは、
そうした「戻ってこれる感覚」だったのだと思います。

孤独や孤立をなくす、というのは、
一人にしないことではなく、
一人になっても、
人生から切り離されないこと。

関わったすべての人に
ハッピーとスマイルを、というのは、
無理に前向きにすることではなく、
自分で選び直せる余白を残すこと。

このブログは、
その3年間の、
一つの到達点としての報告です。

読んでくださった方が、
もしどこかで立ち止まったとき、
「これは後付けの幸せじゃないかな?」
と問い直すきっかけになったなら。

そして、
「これで十分かもしれないな」
と感じられる瞬間があったなら。

それだけで、
この文章を書いた意味は、
十分だったのだと思います。

――まぁ、そんなもんか。


訪問看護ステーション アイビー燕
管理者 高田

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