誰かにわかってほしかったのに、届かなかった。
そんな経験はきっと誰にでもあると思います。
言葉にするほどでもない。
でも、ほんの少しでも気づいてほしかった。
「わかってるよ」の一言だけでもほしかった──
それがないと、
「この人には何も期待しない」って、心の扉を閉じたくなってしまうんですよね。
人間は、孤独なときほど誰かに寄りかかりたくなります。
そしてその「誰か」が、自分を救ってくれるような気がしてしまう。
でも、知らず知らずのうちに、
自分の“理想の反応”を求めてしまっていることもあります。
本当はこう言ってほしかった
もっとちゃんと見ていてほしかった
なんで気づいてくれないの?
その「見てほしかった」という思いが強すぎると、
届かなかったときに、強い失望や怒りに変わってしまうことがあるんです。
「他人に対して怒るとき、実はその多くは『もっと愛してほしい』という叫びである」
― ジャック・ラカン
相手への苛立ちの奥には、見てほしかった・大事にされたかったという思いがある。
だからそれ自体は悪いことじゃないし、否定する必要もない。
ただ、その思いとどう付き合うかが大切で。
「わかってくれない=もういい」になってしまうと、
人との関係はいつも“切るか・耐えるか”の二択になってしまう。
誰かにわかってほしかった気持ちも、
思うように伝わらなかった寂しさも、
どちらも、自分が本気で人とつながりたかった証拠。
その気持ちを、ちゃんと抱えたうえで──
それでも「もう少し誰かと関わっていたい」と思えたなら、
ちょっとずつ、自分の寂しさにも、優しくなれる気がします。
だから今日も、もしも誰かにがっかりしたとしても、
こうつぶやいてみてください。
「まぁそんなもんか」って。
訪問看護ステーション アイビー燕 管理者 高田
*この言葉を残したジャック・ラカンは、フロイトの思想を受け継ぎながら、「言葉と無意識」の関係を深く掘り下げたフランスの精神分析家です。人のこころの動きを、“言葉にならない領域”から丁寧に見つめ直した人物として知られています。
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